19世紀エッチング芸術再興の原動力となった「腐食銅版画家協会」

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ミレー「耕す人」(1855-56年)
ミレー「耕す人」(1855-56年)

 

こんにちは。

ブログをお読みいただきありがとうございます。

 

今からちょうど2年前のこの時期。

唯美主義やジャポニスムの影響を受けた詩情的な作品で知られる画家ホイッスラーの特集展が横浜美術館で開催されました。

 

その100点を超える出品作品の中でひときわ異彩を放ち、

大きく取り上げられていたのが、ホイッスラーの手がけた銅版画"エッチング"=腐食銅版画。


 

初期から最晩年にかけての画家の画業をたどるこの大回顧展に、

相当数の版画作品が、油彩や水彩作品と横並びに展示されていた意味。

それはホイッスラーにとって、エッチング版画という芸術を通した自己表現に、肉筆にも劣らない魅力があったからでしょう。

そして彼が活躍した時代の19世紀半ばから後半、エッチングに対する同じような情熱と志を抱いていたのはホイッスラーだけではありませんでした。

 

本日は、多くの芸術家を夢中にさせたエッチング芸術の変遷を、19世紀の版画業界を取り巻いていた環境を中心にたどっていきましょう。

 

金工師ギルドの工房
金工師ギルドの工房

銅版画の一種であるエッチング技法の発祥は、中世ヨーロッパの時代。

商工業者の間で職業別に結成され、厳しい徒弟関係の上に成り立つギルドという組合制度に遡ります。

中でも、甲冑や武具の装飾なども担っていた組織が、「金工師」のギルド。

彼らが代々受け継いだ金属加工技術が、エッチング技法へと結びつき、

最初にこれを版画に応用したのが、15世紀のドイツ人金工師ダニエル・ホッファーと考えられています。

 

やがて、それまでの主流である銅版画技法「エングレーヴィング」と拮抗するほどに発展。

特に17世紀から18世紀にかけて、幾多の芸術家がエッチング制作に情熱を捧げました。

しかし、エングレーヴィングに代わってエッチングが興隆したのは何故だったのでしょうか。

 

その理由として「描画の容易さ」と、それによる「表現の自由度の高さ」が挙げられましょう。

 

先の鋭い彫刻刀(ビュラン)で直接銅板を彫るエングレーヴィングは、

力強く明確な線が出せる一方、作品はどこか硬質的な表現に仕上がってしまいます。

しかも、彫版に高度な技術を要するため、画家は描画に加えて彫りも習得しなければなりません。

 

エングレーヴィングによる肖像画(16世紀)
エングレーヴィングによる肖像画(16世紀)

 

それに対しエッチングは、版面に塗ったニスの上から細いニードルでニスを引っ掻くように描画したのち、

硝酸などで版を腐蝕させることによりインクを埋める溝の深浅を調整する銅版画技法。

画家は、彫版の技術を身につける必要なくペン描きのように自由で伸びやかな線が描け、

また、版の腐食時間の長さにより、微妙な明暗のグラデーションや線の強弱、繊細なニュアンスの表現まで追求できる自由性が特徴です。

 

エッチング特有のこうした表現により、17世紀にはレンブラントやジャック・カロ、オスターデ、クロード・ロラン、

18世紀ではピラネージ、カナレット、ゴヤらあまたの芸術家が名作を生み出しました。

 

レンブラント「病人たちを癒すキリスト」(17世紀)
レンブラント「病人たちを癒すキリスト」(17世紀)
ロラン「レベッカとエリエゼル」(17世紀)
ロラン「レベッカとエリエゼル」(17世紀)

 

さて、時代は下って1800年代前半。
そもそも、限られた部数を摺ることで稀少性を高めるのが「芸術」としての版画の価値。
しかし、ジャーナリズムの大衆化が進んだこの時代は、情報をより早く、より広範に伝達することが優先されたため、大量に刷られる新聞や雑誌に掲載されるような「実用」的な版画が主流に。
「芸術」としての版画は新しい時代に対応できる社会的役割を失っていたのです。

 

さらに、産業革命の影響から進んだ新しい技術革新により写真技術が発明されるなど、

版画を取り巻く状況は、その存在意義を失ってしまうかもしれないほどに"危機的"だったと言っても過言ではありませんでした。

 

そうした環境下で芸術としての版画、特にエッチングの可能性を信じ、その復活と普及を目指して立ち上がった3人が、

出版人:アルフレッド・カダール

刷り師:オーギュスト・ドラートル

版画家:フェリックス・ブラックモン

 

カダール
カダール
ドラートル
ドラートル
ブラックモン
ブラックモン

 

彼らが1862年5月に結成した「腐食銅版画家協会」の主目的は、出版事業を軸とした商業活動。

具体的には、毎回5点のエッチングを収録した版画作品集を毎月刊行すること。

 

ブラックモンやメリヨン、ラランヌなどの版画家たちが描いた作品を稀代の名刷師と呼ばれたドラートルが版におこして刷る一連の作業を担当。
最後に、出版業界に詳しい版元カダールが編纂し世に流通したこの作品集は、一般市民のみならずエッチングに興味を持っていた若い画家らを大いに触発したのです。
「腐食銅版画家協会:近代の銅版画集」
「腐食銅版画家協会:近代の銅版画集」
版画集に捺されたエンボス
版画集に捺されたエンボス

 

 

 

 

特に、当時の版画家たちを驚嘆させたのが、

紙質やインクの色、腐食時間の細かい調整により寒暖や季節感までをも表現してしまう、

天才刷り師ドラートルの超絶技巧。

 

研究熱心だった彼は、インクが詰められた版面の溝部分をモスリン布で手加減を変えながらこすることで、描線のにじんだ深く繊細な陰影やビロードのようなトーンを表現したりと、独自の技法を開発。

 

複雑な作業を経て深い明暗の諧調を生み出した作品は、抒情性にあふれた「芸術的な刷り」と大絶賛されました。

<ドラートルが刷りを手がけた作品例>

ジャック「風車」(1846年)
ジャック「風車」(1846年)
ホイッスラー「台所」(1858年)
ホイッスラー「台所」(1858年)

 

彼らの出版活動は1867年までの丸5年間継続され、延べ132作家による300点が刊行。

腐食銅版画(エッチング)という歴史ある芸術の継続と後生の育成に大いに貢献しました。

 

しかし、残念ながら協会は以後、財政的な不遇や普仏戦争、パリ・コミューンの勃発などにより事実上解散。
また、ドラートルが手がける作品は、あまりにも技巧的で「芸術的な刷り」に仕上がってしまい、逆にそれが版画家の意図と異なる結果になることも多く、反発を覚えるようになった彼らとの間で亀裂が発生するなど、組織の解散とともに、ドラートルもエッチング芸術の表舞台から姿を消すようになりました。

 

その後、21世紀の今日に至るまでエッチングが芸術的な版画として爆発的な流行をみせたという事実はありません。

しかし、白と黒の陰影のみという限られた表現によって創り出されるエッチング芸術は、

静謐で繊細な深い精神性を帯びた世界観で人々の心をつかむ、不滅の芸術となっているのです。

 

<ドラートルが手がけた当店所蔵作品の一部>

ミレー「ミルク粥」(1861年)
ミレー「ミルク粥」(1861年)
ミレー「羊飼いの少女」(1862年)
ミレー「羊飼いの少女」(1862年)

※参考文献 町田市立国際版画美術館「フランス19世紀のエッチング 腐食銅版画協会展」図録(1992)

(R・K)

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